【閑話終題】

奇譚 2022.01.15

明晰夢

気づくと部屋の中にいた。足元を見ると、かなり年季の入った畳が目に映る。自分の部屋はフローリングだし、事務所の床にはパンチシートが敷かれている。となると、ここは何処だ?
辺りを見渡すと、すぐ横に薄汚れたベージュのソファ。その奥には木製のローテーブルが置かれている。適度に散らかってはいるけれど、全体としては妙にガランとしている。とにかく、どこもかしこも全く見覚えがない。という事は、恐らくこれは夢の中だろうな。それにしても、カットインとは驚いた。まるでVRの世界に紛れ込んだようではないか…

夢の中でそれが夢であることに気づき、その夢を自在にコントロールする。いわゆる明晰夢を見られるようになって、早ン十年と経つのだが、とは言え年に数える程しか経験出来ないし、未だに自発的に入り込む術を知らない。いつも予期せぬタイミングで始まってしまうのだが、自分の場合その導入はプールの潜水に似ている。半覚半眠の状態から、スーッと水中に潜り込むような感覚が続いて「あ〜入ったな」と自覚するのだ。

初めて金縛りに遭ったのは、中学生の時だった。買ったばかりの赤い自転車に乗っていると、クラスメイトの男子が近寄ってきて「俺にも乗らせてくれよ」と頼まれる。折角のお気に入りを貸したくはないので、ペダルを強く踏んでスピードを上げ、撒いてやろうと考えた。が、背後から猛然と追いかけて来る気配が。そして遂には追い抜かれる。抜き去りざま、そいつは顔だけくるりと振り返り「俺だって」と呟いた。その声にディレイが掛かる。
俺だって俺だって俺だっておれだってオレダッテェウオェアッフェエウォウェ…
直後、真上からズ〜ンと押し付けられ、身動きのとれぬまま敷布団の奥底へと沈んでいった。6m位潜っただろうか。このままでは生きて戻れない!という恐怖感。あの時は一体どうやって目覚めたのか?その後も、夢の中の台詞にディレイが掛かって金縛り、というパターンを何度も経験した。その都度無駄な抵抗を試みていたのだが、ある時ふと成り行きに任せようと考え、全身の力を抜いてみた。いっそ底の底まで沈んでやれ!そう腹をくくった途端、ビート板がめくれ返るように体がクルンと反転して、苦も無く水面?へと戻る事が出来た。金縛り師、破れたり!
この時の切り替えしが、後に明晰夢を見始めるきっかけとなったのではないだろうか?

「今から何でも、お好きなようにしていいですよ。さあどうぞ!」
突然そんな風に言われたとしたら、皆さんはどうするだろうか?
・自由に大空を飛び回る・思いつく限りの豪遊
・ヒーローになって世界を救う・お目当ての人の家に忍び込む
ダークネスな展開がお望みならば、
・快楽〇人
・透明人間になってやりたい放題
・憎いあん〇生を〇〇〇〇
・悪の枢軸と化し世界征服
なにしろ夢の中は何でもアリの治外法権。煮ようが焼こうが思いのままだ。その筋の研究が進み、誰もが自由に明晰夢を楽しめるようになった時、世の犯罪率は大幅に減少するのでは?と、結構真剣に思っている。

とにかく、こんな殺風景な部屋に一人でいても仕方ない。何をするかはさて置き、まずは外へ出なければ。え〜と、出口はどこだ、出口は?
不意に「フゴッ」という音がした。何事!?と考えるまでもなく、やたら聞き馴染みのあるこの音は、睡眠時無呼吸症候群由来の自分のイビキに他ならない。糞!折角のチャンスだというのに、こんな生々しいものを聴かされた日には、生身の方に意識が飛んで行って、こっちの世界が崩壊してしまう。ほら言わんこっちゃない。景色がどんどん曖昧になっていき、カラダも腰の辺りから浮かび上がっていくではないか。傍らのソファにしがみつこうとしても、雲を掴むように手応えが無い。駄目だ。もう駄目だ…
気づくと、いつも通りベッドの中にいた。一応二度寝もしてみたが、あの部屋へは二度と戻れなかった。

夢と現実との境に、越えてはならぬ一線が潜んでいるとしたら、そろそろマズい領域に差し掛かっているのだろうか?