【閑話終題】

創作 2023.04.14

ジャンルの越境とマドラスチェック

自分が中高生の頃、世間にはまだアイビーブームの余韻が感じられていた。もっとも、当
時はアイビーの何たるかなぞ理解しておらず、やれ「みゆき族」だ「街アイ」だといった
且つての現象も、後々になってから知ったのだが。
それはさておき、当時から気になっていたのが、夏の素材の代表格マドラスチェック。カ
ラフルな格子模様は、まぶしい日差しの中でこそ格好のアクセントとなる。
「本格派のインディアマドラスは、水に漬けると染料がにじみ出て、他の色糸と混ざり合
う“色泣き”という現象が起こる」と、ものの本で読んで以来、実際この手で泣かせてやろう
と躍起になった。しかし、それが伝統的な草木染による製法特有の現象などとは、周回遅
れのアイビーもどきが知る由もない。安手の大量生産品をやみくもにジャブジャブやり続
けたところで、一向にじむ気配は起こらず、失意と共に“色泣き”は、ツチノコのような伝説
と化してしまった。
『門限ズ』は、自分が参加しているパフォーミング集団の名称である。音楽・ダンス・演
劇・アーツマネジメントをそれぞれ専門とする同世代の4人が集まり、ジャンルを越境した
舞台作品を創作している。2023年3月、愛知県豊川市の重要文化財・三明寺、他で行った
イベントでは、その寺に伝わる民話『馬方弁天』をベースにした新作を上演した。
馬方は仕事熱心で陽気な男。いつものように馬を引きつつ、得意の唄を響かせながら古寺
の前を通りかかる。すると突然、目の前に美しい弁天様が現れた。
かねてから馬方の唄声を気に入っていたという弁天様。唄のお礼にと、いくら使っても中
のお金が減る事のない巾着を手渡す。
人に話せば巾着の効力が消えてしまう為、この一件は他言無用!誰にも言わぬようにと注
意されたものの、馬方は弁天様への叶わぬ思慕と、無限に湧き出る金のせいで、すっかり
怠惰な生活を送るようになる。仕事もせず毎日酒に溺れ、様子を怪しんだ村人達についつ
い秘密を暴露してしまったところ…
こんな『馬方弁天』のあらすじを12分割し、各自のパートに振り分ける。最初はソロ。二
巡目は他のメンバーとのデュオ。そして3巡目は4人総出で行うカルテット。
1 演劇ソロ → 仕事帰りの馬方、唄いながら通りを歩く
2 音楽ソロ → 突如、寺の門前に現れる弁天
3 マネジメント・ソロ → 馬方に巾着を手渡す弁天
4 ダンス・ソロ → 弁天、ぱっと消え去る
5 演劇デュオ(演劇+ダンス)→ 約束通り唄い続ける馬方
6 音楽デュオ(音楽+マネジメント)→ 決して減る事のない巾着
7マネジメント・デュオ(マネジメント+演劇)→ 馬方、盛大に怠けだす
8 ダンス・デュオ(ダンス+音楽)→ 金の出どころを怪しむ村人達
9 演劇カルテット → 酒場で村人達に問い質される馬方
10 音楽カルテット → 馬方、ついにカミングアウト
11 マネジメント・カルテット → 効力が消え、ただの巾着に
12 ダンス・カルテット → 心を入れ替える馬方、唄声復活!
基本的にパート毎の演出は、担当者に一任されるのだが、この「アーツマネジメント」と
いう、およそ舞台芸術にしゃしゃり出る事のない要素が混じり込んでくる辺りが、門限ズ
の門限ズたる所以なのだ。では、そこで一体何が行われるのか?それは、該当シーンを専

門的観点(馬方の「唄」に対し、アート活動への環境支援を行った弁天様、という解釈)
から分析したレクチャーであったり、観客へマイクを向け「無限にお金が湧いて出るとし
たら、あなたならどうする?」と尋ねるインタビューであったり、出演者揃って馬方の末
路を論じ合うシンポジウムであったり。上演中、唐突に批評的要素が割り込んでくる。担
当の吉野さつきは、某大学でアーツマネジメントの教鞭を執る立場なので、この手の役柄
は専門領域。セルフパロディー的な役割を果たすと共に、作品全体に起承転結の「転」を
生じさせている。
こう説明すると、随分とアカデミックな演目をイメージするかも知れないが、決してそう
はならないのが50代の懐深さ。一見真面目腐ったミニ講義は、その直後に勃発する幾分悪
ノリな半即興シーンとの温度差を生み出す「前フリ」として機能するのだ。作品全体とし
ては、案外緻密に構成されているにも関わらず、はた目にはいい歳こいた中年共が、調子
に乗ってその場の勢いで遊んでいるようにしか見えない辺りも、自称クロスジャンルバン
ドの面目躍如と言うべきか。
互いの領域を絶え間なく侵食し合いながらも、不思議と破綻する事のない30分間。古より
伝わる民話を縦軸に、畑違いの四色をゆるく織り込んだ門限ズの新作は、かつて追い求め
ても得られなかった“色泣き”の効果を、お門違いにも具現化したかのような趣きがあった

余談ながら、マドラスにはこんな逸話も…
かつて、インドの綿織物を輸入する為に東インド会社を派遣した英国は、18世紀の産業革
命後、自慢の機械産業で大量生産した安価な綿織物を、逆にインドへ輸出しようと目論ん
だ。しかし、そこで邪魔になるのが、当時随一の品質を誇ったインドの織物技術。手段を
選ばぬ英国人達は、何と現地の熟練職人の両腕を次々切り落とし、二度と仕事が出来ない
ようにしてしまったのだとか。
それは随分極端な例ではあるが、残しておきたい伝統や文化は、資本の論理によって駆逐
される運命にあるのだろうか?